全部やろうとしない

公開日 2025/09/27

高校生の定期テスト期間中です。
中学生の中間テストは5教科ですが、高校生は科目が多くて大変ですね。
多いと、国語2科目、数学2科目、英語2科目、理科社会3科目ですからね。
中学生も高校生もテスト準備期間として与えられるのは1週間か2週間です。
中学生と同じ感覚で、高校生のテスト勉強が終わるはずがありません。
特に高1生は、それを自覚してほしいと思います。

撃沈しないように

中学生のころからコツコツやってきた人は特に注意が要ります。
高校の定期試験範囲は、2週間では終わりません。
それは言い換えると、
全範囲満遍なく勉強するならば、普段からやっておく必要がある、
ということです。
とはいえ、普段から淡々とできる人は少数派ですから、対処法を伝えます。

全部はやらない

全範囲やるという前提を捨ててください。
これは、端から諦めるという意味ではありません。
優先するものを決める、ということです。

例えば、将来の大学入試で重要な科目を優先する。
ある科目の中でも、基本問題だけは徹底する、などです。

多くのやるべきことの中から、自分で優先順位をつけて取り組む経験は仕事を始めてからも活きてきます。

リハーサルをする

演奏会や運動会では予行演習をします。
本番前に、当日の動きなどを確認しますね。
しかし、試験となると皆これをしなくなります。
だから本番で「やらかす」んですね。

具体的には、試験の前日に新しく知識を入れない。
2日前には予定しておいた内容を終わらせ、リハーサルに入ります。
つまり、勉強したことを発揮できるかをチェックします。
前に勉強した問題を解ける状態ができているかどうか。
試験の問題は、ほとんどが一度は解いたことがある問題だということを理解していますか?

入試でも同じことが起こる

決まった試験範囲のために準備するという点では、
入試も定期テストも同じです。
つまり、定期テストで失敗した人は、そのままでは入試でも失敗する可能性が高いということですね。

点の取れる試験を

公開日 2025/09/19


学校の定期テストや実力テストの問題を見ていると、
ときどきあまり点数を取らせる気のないテストに出会います。
数年前ですが、平均点が30点に満たないものも見たことがあります。
そこまでの自己満テストは少ないですが、テストはもっと点を取らせるものであっても良いんじゃないかと思います。
定期テストなんかは平均点70点、80点くらいでも良いと思います。
正規分布を取るようなテストである必要がない。
評定も高校によってはほとんど4と5しかつけないところもあり(推薦対策)、もはや機能してません。


ぱっと思いついただけなのですが、
校内実力テストの方は、生徒ごとに難易度を選べるようにしても良さそうです。
それぞれの科目で3段階くらい選べるようにする。
または前回の成績に応じて挑戦できるレベルが変化する。
難易度
⭐︎⭐︎⭐︎
⭐︎⭐︎
⭐︎
があったとして、前回⭐︎⭐︎のテストで70%以上ならば⭐︎⭐︎⭐︎と⭐︎⭐︎のどちらかを選択、のように。
3種類のテストは先生たちがすべて作る必要はなく、外部に委託。
(すでに実力テストを外部委託している中学校もあるようですね。)

諫早の高校は、東京のような大都市の高校と異なる点があります。
大都市の高校は、人口が多く高校数も多いため細かく高校の偏差値が刻まれており、ある高校には入学時点でほとんど同じ学力の生徒が集まります。
一方諫早市の高校は、諫早高校を例に取っても、全国でもトップレベルの生徒がいたり、中学での実力テスト得点率が65%くらいの生徒まで、非常に幅が広いんですね。
両者の実力を同時に測るテストを作るのは難しいのが当然です。どちらかに寄せれば、もう片方の実力を測ることが不可能になります。
だから難易度選択制、少し良いかもと思いませんか?

車があれど足は必要

公開日 2025/09/11

これだけAIが台頭してくると、必ずこういう人がいますね。
「AIが全部考えるから勉強は必要ない」
この問いは真正面から捉えるものではありません。
特に考えなしだったり、適当に匿名でネットに書き込んでいるに過ぎません。

しかし、こういう問いを考えのきっかけにすることはできます。
学校で勉強することは無駄だ、という人はどのような考えをもってそう言うのか?
今後どのように勉強していくのがよいのか?
国の方針にそのまま従っていてもよいのか?

試験の問題のようにすぐに答えが出せるようなものではありませんが、自ら問いを立てるきっかけとなり、それが自分自身を成長させます。
バカな意見だ、と一蹴するのも、
それはそれでもったいないと思います。

歩けなくてよいのか

AIが発達すれば勉強が必要ないという人は、これまでの文明の発達を例に挙げます。
自転車や車があるから脚力は必要ない。
メガネがあるから視力も必要ない。
同様に、AIがあるから考える力も必要ない。

本当にそうでしょうか。
いくら車があるからと言って、普段運動しない、歩かないような生活をしているとたちまち体が弱くなります。
脹脛は第2の心臓とも言われます。生物の体は頭、手、足、と別々に機能しているのではなく、絶妙なバランスの上に成り立っているので、どこかが弱くなると他の部位にも影響を及ぼします。
江戸時代の飛脚ほどの脚力は要らないかもしれませんが、ある程度の脚力は持っていないと快適に生きることはできなくなるのではないでしょうか。
AIがあるからと考えることをやめてしまうと、退化するのは脳だけではなく、体全体なのではないでしょうか。

AIの発達はあまりにも速過ぎます。
もし医療が全く発展しておらず、数千年、数万年をかけるならば、AIを前提とした新人類が誕生、正確にはAIを前提とした個体が生き残りやすくなり、脳機能が低下しても全体でバランスをとった人間になることができるかもしれません。
しかしAIの発達は人類の進化のスピードを遥かに超えています。到底追いつけるものではありません。

歩いて健康を保てる程度には、
勉強して知識をつけておくのが良い、と思うわけです。