公開日 2020/09/23
昨日は祝日でしたが、昼から15名ほどが自習に来て勉強しました。
4連休なんて関係ないですもんね。
いつも通り、自分の決めたことをやるだけです。
さて、世の中にはまだまだ学校での勉強というものを特別なものだと考えている方がいらっしゃるようです。
学校の勉強を教える立場であるからこそ書きたいのですが、
とにかくそれをしておけばよいというものでもないし、
学校のテストで人生が決まるわけでもないし、
習うことは人が知りえるもののごくわずかに過ぎません。
誤解のないように述べておくと、
だから学校の勉強はしなくてもよいとか、
そのような意味ではありません。
ただ、
学校の勉強が、何か神や王のような絶対的なものと勘違いしてはいけない、ということです。
勉強というのは、なにも学校で習うものだけではない、
ということを知っていてほしいと思います。
常に、何かを勉強している
勉強というと、
国語とか数学とか技術家庭科とか、そういうものを想像すると思います。
それだけでしょうか。
例えば、みなさんいつの間にか、
信号機は青で進む、赤で止まることを身につけているはずです。
幼稚園や保育園で習った人もいるかもしれませんが、習う前に知っていたのではないでしょうか。
ではいつそれを知ったかというと、
親に連れられて外出したときでしょう。
何度も何度も横断歩道を渡ったり、車を運転する様子を見ていて、
あの青い光が何を示しているのか、意識的にか無意識的にか、理解したと思います。
このように、交通ルールを「勉強」したはずです。
席につき、板書しながら先生の話を聞いて身につけたものではありません。
この、日常生活の中でも行っている勉強を含め「広義の勉強」、
学校で行うもののみを「狭義の勉強」とします。
狭義の勉強では、今でこそタブレット学習や実践的学習が増えてきたものの、最終的には試験の点数で評価されることに変わりはありません(それが公平で、理にかなっているからです)。
時には他人と比べて評価されます(偏差値)。
このような状況で、全員が進んで狭義の勉強をするかというと、
No、ですよね。
狭義の勉強を特別視する他人、特に家族がいると、
その子にとっての「勉強」は、狭義の勉強になってしまいます。
スマホゲームで敵の倒し方は学習していくのに、学校の勉強はしなくなります。
なぜかというと、狭義の勉強を特別視する者に、
「勉強しなさい」と強制され、あるいは
「なぜできないのか」と詰められるからです。
勉強という言葉に悪いイメージがついていきます。
自分の分身を強くしていき、敵を倒していく快感が得られる広義の勉強と、
他人と比べられ、できないと罰を受ける狭義の勉強があるとき、
その人がどちらを選ぶかは、火を見るよりも明らかです。
狭義の勉強は、土台になる
学校で習うことは非常に重要です。
なぜなら、広義の勉強の基礎にあたるからです。
わかりやすい例をいうと、
プログラミングの勉強をするとします。
どの言語も基本的に英語が使われるので、
学校で英語をしっかり勉強したものとそうでないものとの間には、スタートから差ができています。習得スピードも変わります。
国語を勉強したかどうかは、
例えば会社で配布物などの資料を作るとなったとき、言葉遣いに現れます。
数学の確率を勉強すると、
モノポリーなどのすごろくゲームに強くなります。
世の中の様々な数字に騙されないようになります。
学校の勉強もゲームと同じです。
皆さん、楽しくゲームをしましょう。